被災地石巻の人々と繋がった尼崎脱線事故の被害者

2017-04-28 17:54:05 | 日記

今月25日、兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故から12年という時が経ちました。当日の様子は

私もテレビで見ていましたが、まさかという信じられない事故だった記憶があります。

あの日あの車両に乗り合わせながら一命を取り留めた被害者の一人「渡辺淑子さん」は、大学に通

う途中で、4両目の座席で黙々とテキストを読まれていたようです。 電車が猛烈な勢いでカーブ

に差し掛かる。その瞬間耳をつんざくごう音と激しい揺れ、更に傾いたまま車両が止まり、慌てて

車両から這い出して線路に。目の前に広がる惨状に言葉を失ったものの、気が動転し、そのまま

「大学に行かなくては・・・」と現場を離れたようです。 事故から3カ月ほど経った頃、あの日

の光景が突然よみがえり、眠ることも食事を取ることも出来なくなり、病院ではPTSDと、うつ病

と診断されたようです。「自分なんかより、もっとずっと生きるべき人がいたのに」という思いに

駆られ、命を絶つ方法ばかり考えていたそうです。 就職活動も出来ず、大阪でお父さんの仕事を

手伝っておられました。そしてあの東日本大震災の発生。テレビのニュースの画面に映る被災者に

事故後の自分を重ねたようです。「たとえ微力でも、自分に出来る何かがしたい」という思いから

震災発生から半年後には宮城県石巻市に移り住み、12年の9月には、仮設住宅で高齢者の見守り

活動に取り組む「木工職人」の遠藤伸一さんと知り合われます。津波で3人の子供を失った遠藤さ

んも「生き残ってしまった」という思いを抱えておられました。    渡辺さんは遠藤さんに

、脱線事故後ずっと自らの命を否定し続けていた日々だったと打ち明けられました。その話をじっ

と聞いていた遠藤さんが真っ赤な目をしながら言葉をつないだそうです。「生かされた人間は生き

なきゃいけない!俺は生きるぞ」と。  それからの渡辺さんは石巻の町おこしに取り組む一方で、

一人暮らしの高齢者宅への訪問を続けられました。さらに時が過ぎ、15年の12月には石巻を離

れて、セルビアで、アフガニスタンやパキスタンからの難民を支援する活動に加わられました。

そしてこの春、久々帰国すると、真っ先に石巻へ向かい遠藤さん夫妻との再会をされました。

彼女は「ここは一番帰りたかった場所」と笑顔で遠藤夫妻と喜び合われたようです。

そして25日は脱線事故現場を訪れ、心からの祈りを捧げられました。

彼女が海外へと出発される前に遠藤さんと彦根での「クリスマスコンサート」に参加されたので、

「元気で活躍してね」と言葉をかけさせていただき、現地にも何度かお電話をしていました。

遠藤さん、そして渡辺さん・・・そして私たちのご縁を大切にしてゆきたいと思います。

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